日常

しがない生活

あきらめるといいこと

あきらめるということ。だいじなこと。にがてなこと。

 

ズームがものすごく苦手だ。操作が、じゃなくて映るのがすごく。画面越しに話すことに嫌悪感がすごい。「この人、何考えているんだろう」そんなことばかり浮かんでくる。だってそんなの、直接話していても思うことがあるのに。ビジネスシーンではすごくいいのかもしれないが、仲間内で話すとき、意味ねえなと思ってしまう。それはきっと、「むだなこと」こそが目に見えない部分を作り上げるのに、それがなくなってしまうからなような気がする。わからない、ただ慣れていないだけでそわそわしているだけなのかもしれない。一生なれないんだけど。

 

新しい曲を聴く。最近は、あの人が聞かないバンドの曲ばかり選んで、というよりは、あの人が聞いていたラップ調の音楽を避けるようにしている気がする。無意識のような、意識的のような。なんか、聞いてない。

 

人の言葉なんて、たいてい消えていくもので、いくら本当だなんだ永遠だと言っていても、それはその一瞬のうちの出来事でしかない。と、思ってしまっているのがきっと仇になっているのだと思う。人を信じることというか、言っていることに対して、今だけでしょうと思ってしまう。「確かなことはひとつもないのにな。どうせ忘れるくせにな。」その通りだ。

 

最近の考え事は、どうやったらもっと柔軟性のある暮らしになるかということだ。この部屋だからどうするべきで、この場所じゃないといけなくて、だれだれしか来れなくて、行けなくて、何歳だから、男だから女だから、なんだかんだと、いうのが多すぎるような気がしている。まちぜんぶ、きみのものだよ。逆に、まちぜんぶ、どこも君のものじゃないよ。その土地を持っているひとは、必ずまいにち見張っているのだろうか。そんなこと、きっとないと思う。「通り抜け禁止です。」危ないからですか?おかねを払っていないからですか?では、お金を払っている人がフルで使っていますか?ぜったいにあぶなくなくなるのですか?どこか、目的地がないと外出してはいけませんか?誰かがきいている知らない音楽は、電波を通してでしか知ることができませんか?

 

曖昧で、境界がなくて、壁が低くて、同じ空気を吸っていて。カフェならよくて、マンションや住宅街でよくないのはどうしてだろう。もっと境界線のぼけた、暮らしが日常に溶けていく様子がほしい。逆に自分だけの世界を繰り広げられる場所があってもいい。おとなもきっと、秘密基地がほしい。そしてそれに、共感するだれかと、自慢していいだれかがきっとほしいはずだと思う。やりたいことがつまった卒業設計にしような。2月1日、笑っていますように。